GoogleStreetViewの件

http://d.hatena.ne.jp/gintacat/20080824/1219585823
でgintacatさんが書いてくださってます。

ITmediaに記事が載ってたので。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0808/28/news032.html

壇さんは「『このサービスでこんないいことがある』というのが見えない。技術者にはそういう予測があるかもしれないが、一般の人にそれが見えないのがコンセンサスを生む際の障害になる」と指摘する。

デメリット以上のメリットがどうもこのサービスでは私には見えづらいのです。
もちろん、行ったところのない景色を見られる、事前に旅行の下調べができる、などの利点はありましょう。でもそれなら塀の向こう側が見えるような高さから撮らなくてもいいはずです。表札を撮さないで欲しいというのも分かります。

ふと思ったのは、dankogai氏が http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51093321.html

にも関わらず、 Street View に関しては他の Google のサービス、たとえば gmail に比べたらずっと不安は少ない。なぜか。我が家が Street とは直に接していないからだ。

ご存知かもしれないが、我が家はマンションの一アパートメント。Street、すなわち「パブリック」からアクセスするには、まずマンションに入らねばならない。外からは鍵がなければ開かないし、開いた先のロビーには24時間人が詰めている。誰を我が家に招いて誰を招かぬかは、こちらの手の内にある。

と書いてたこと。私は政令指定都市内のワンルームマンションの(5階建ての5階/9階建ての4階)に住んでだことがありますが、その条件でストリートビューをみたら「すごいなぁ。うちの周りもっと撮ってくれよ。」の方が勝っただろうなと思うのです。
今は実家住まいです。道に面してますから撮られる可能性はあります。田舎まで来ないとは思うけど。その時どう映るかでまた感想も変わるのでしょうが、どういう条件から見ているかで案外、印象は変わるように思います。
(そのへんが、階層化(格差という言葉は嫌いだがまぁそういうこと)がしっかりしてる米国と、ちょっと前まで総中流家庭だった日本との違いでしょうか。

 八田さんは「アメリカの家は前庭があるから、道から撮影しても表札や家の中は見えづらい。そのあたりを汲んだサービス設計をすべきだったのでは」と指摘する。その一方で「プライバシーを言う人は若干自意識過剰ではないか。『気持ち悪い』という意識は、明治時代に『写真を撮られると魂を抜かれる』と言っていたのと同じに聞こえる」と皮肉った。

皮肉られるとちょっとなぁ、と思いますが、それでも明治時代の人は未知の「写真なるもの」を(真偽はともかく)「怖い」と感じたのは確かです。
それが誤解であるのはのちに新しい人々の周知努力によって、あるいは経験則によって(写真を撮られたけど魂を抜かれた人がいない)裏打ちされる中で「怖さ」が抜けていったのではないでしょうか。
もちろん、当時の写真屋さんは怖さを取り除くためにあらゆる処置をしたのではないかと推測されます。

Googleは、撮影車の車高を低くするなど、できるはずの工夫もしていない。気配りの違いは、企業としての経営判断の違い。ストリートビューに関してネガティブな話題が中心になったのであれば、Google経営判断に失敗したのだろう」(八田さん)

ときに、Google社の態度というのも気に掛かりました。
かつて、Googleは神か?という論争がありました。またNHKGoogle社を特集したときの印象も「すごい。けど、ちょっと怖いな」というイメージを抱きました。(そしてそれは今でもあまり変わってません。便利で使ってるけど、本当は何をやってるのか、やろうとしてるのか分からないという不安≠0。)
日本というある種の気遣いを必要とする国ではやはりそれなりのやり方というのがあって、それを学ぶいわば曲がり角にG社はさしかかってるのではないかと感じました。