生きるということ。

19日の日記でid:kikake77からcommentをもらって、なんとなくもやもやした、口悪言えばけったくそ悪いような感じで生協に降りていったらどうしても目に留まったタイトル。一旦離れたけど、どうしても気になって購入。。

ベロニカは死ぬことにした (角川文庫)

ベロニカは死ぬことにした (角川文庫)

地下鉄と帰りの電車を十数本遅らせて特急ホームの待合室で一気に読む。
自分が今まで3年あまりぐしゃぐしゃ文句垂れていたのが情けないような、それでいて妙にもやもやした部分がすっきりした気がした。

特に自分が得ていたもの、掴んでいたものを自ら手放してしまった事や周りを気にしてしまった事への後悔がありありと浮かび、悔やみ、それを認めて、それで何かがはっきりと落ちた。

憑き物が落ちた、という言葉はこういう時のためにあるのだ。


うつ病の薬に関して言えば、急性期には効くけどもあくまで対症療法で、根本は考え方なり哲学、宗教と言ったところまで入り込んでしまうと私は確信している。
だから、その根本の部分をどうにかしたくていろいろあがいてきたのだ。

ようやくとそこの根本のところをつかめたようだ。SSRISNRIではどうにもならなかった部分だが、やっと痒いところに手が届いた。

偶然か必然か、このような記事も。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081121-00000055-san-soci

疑似科学やオカルト… なぜ、だまされるのか?
 ■「欲得ずく」「思い込み」が落とし穴 (産経、2008/11/21)

(記事は多分、数ヶ月で消えてしまうので必要なところは引用しました)

大変恥ずかしながら告白しておくと、金銭的経済的に強欲な時期がずっと続いていた。ホリエモンが「何でも金で買える」と言ってたあたりからひきずって来た話だからもう7年くらいか。結果的には見事に滑り台を滑り落ちたわけです。

そこから、いろいろはいずり回る中で生きていくということの端くれが、今日この本を読んで感じたことでようやく腑に落ちた気がした。

 「あの人の言うことだから、本当だろう」という主体性の放棄も、自らの心をだます行為だ。「自分の目でしっかり確かめ、自分の頭で判断する習慣を」と呼びかける。

アルファブロガーなんかは(も)多分これですね。

大学生になると教科書を信じるなと教えられます(よね?)。受験指摘民にとってはある種カルチャーショックなわけですが、必要で大事なことです。
そういう意味では教授とかの偉いとされる人も頭から信じてはいけないのです。

一度自分で咀嚼して考えてみて「この考えはあってるけど、ここはどうも胡散臭い。」とか嗅ぎ分けないといけません。

長いこと効かなくなっていた私の嗅覚は少し戻ったようです。

科学技術が進歩したこの時代に、人はなぜ、「スピリチュアル」にはまるのか。安斎さんは、それこそ、「なぜ」と問う力が弱まっているからだと嘆く。

ふと思いました。禅問答というのも「なぜ」ですね。
世の中、答えが出ないことの方が圧倒的に多いのです。そこから目をそらしてはいけないけど、直視し続けては身が持たない。

その辺をうまく渡るのが上手な人もいればそうでない人もいて、百人百様なわけです。

楽して得を取りたいという「欲得」と「思い込み」、それに「非合理的思考」が結合するとき、人はとめどもなく危うい「だまし」の深みにはまっていく、と安斎さんは警告する。

百ある甘そうな話なら一度は触れてみたいさ という歌詞がYAH!YAH!YAH!(byCHAGE&ASKA)に出てきます。

まぁ、触れた代償がこれですから。高く付きましたけどね。