人生とは苦である(水戸黄門のテーマをBGMにどうぞ)

ふとしたことから、あるページに行き着きました。
「現実から逃げるから決断できなくなる」
http://www4.plala.or.jp/k-k/komoku092.html

なんだか、(いい意味で)頭をどつかれたような気持ちになりました。

一部を引用しますと

  その人にはじめから能力がなかったのではなくて、現実から逃げたという後ろめたさが自信を失わせ、そしてやる気が失せ、ついにはやることもなくなるから能力が本当になくなってしまうのです。 経験することがなくなるから、能力がなくなって当然なのです。 いま自分の無力感に苦しんでいる人には、このことを真剣に考えて欲しいと念願しています。 この悪循環をどこかで断ち切らなければならないのです。 自分が私の言うことのどの段階で、無力感に陥ってしまったのかを真剣に考えてみれば、そこに現状から抜け出す方法が見つかるものと思います。 

  人生は自分の思うようにならないのが普通なのです。 生きることは苦しいのが普通なのです。 お釈迦様が、そう言っているではありませんか。 「人生は苦だ」と。 「人生は苦だ」とは、人生は自分の思うようにはならないということです。 生きていくとは、その思うようにならないこととの闘いなのです。 そのもっとも根本的なことから逃げようとするから、自信がなくなって当然過ぎるほど当然なのです。 厳しい言い方で申し訳ないのですが。 人生が自分の思うようになると思うこと自体が間違っているのです。 間違っている考え方にたてば、すべてはおかしくなって当然だと思います。

あぁ、自分は恥ずかしいながらここ5年くらいは大逃げに逃げていたのだなと思いました。
否、本当はもっともっと前からでしょう。根は小学校くらいからでしょうか。とにかく逃げて問題をいつの間にか自分で大きくしていたのです。立ち向かえばあるいはもうちょっと違う展開を見せていたであろう諸々の人生という名の付く問題に。

この際ですから白状すれば、「失敗しないように」立ち回ってきたのです。

私は乗り物(とくに鉄道)が好きで、小さい頃その手の本をせがんで買ってもらってはぼろぼろになるまで読んでいたものです。
その中にATSという代物の説明が有りました。自動列車停止装置というもので、要は赤信号を無視(見落とし)しても自動で列車を止めるというものです。

小さかった私は随分感心したのを憶えています。間違えても安全にして「絶対に」事故を起こさないとは…
いつの間にか自分の人生でも事故を起こさないようにしていたのです。入試に落ちるという事故をしないように、浪人という事故をしないようにetc...それらは決して事故ではなく、形は様々なれど誰しもが通るであろう人生のイベントであり、今から思えば(長い目で見れば)全くの間違いなのですが…

けれどもそれはやはり、自分の苦手に挑戦する、自分の限界にチャレンジする、自分のいやなところを見つめるという人間らしいことを避けていたのだと思います。「この人生、いつかツケを払うときが来るな」とぼんやりと思いましたのはすんなりと大学入試に受かってしまったときでした。一時期不登校寸前まで行ったのですが、何とか医務室や相談コーナー(当時はカウンセラーという呼び名でもなかったように思います)に助けてもらい、夏休みに近所で遺跡発掘のアルバイトで身体を動かしてるうちになんとかその時はのりこえた(ようにみえた)のです。それから4年、浪人もせず、2000年の氷河期の中、希望の業界に就職も出来ました。でも、上へ昇れば昇るほど落ちたときのダメージは大きいのです。

うつになり、うつ病と解らず半ば事故のように退職し、転職に失敗し、半引きこもり半ニートになり、それからどうにかこうにかここまでリカバリしてきました。正直、焦ってました。そんなときに見つけたのが冒頭のページでした。(余談ですが、うちの大学のファイルサーバがeureka=ギリシャ語で見つけた!なんです。そのURLを見るたびにもうちょっとはがんばろうと思うわけで。)

ま、なんというか、「terapon、やっと気づいたか。」という知人(複数)の声が聞こえたような気もします(念のため:本当に聞こえたわけでなく比喩ですよ、でも思い浮かんだのは一人ではなく、複数人いたわけで。)。

そんなこんなを今日、13年越しの医務室で人生についてのお悩み話をしていたわけです。自分用にメモはしてあるのですが、一つだけつまみ出すと「ま、人生って一番イヤだと思ってたことでメシを食っていくことになるもんだよ、ある種の(前向きな)あきらめというものがどこかでいるのだよ」というようなことでした。そうかもしれないし、そうでない人もいっぱいいると思いますが、どちらにせよ一つの真実だと思います。少なくとも、いやだったことでも少しは好きな部分が見つかるよう努力することは今の自分には必要なのかな、と。もちろん、人間ですから出来ないこともいろいろあるのですが、それはそれで受け入れてある意味、諦観するしかないのだと。そして、それでもそのイヤだと思うものとも、あるいは自分自身とも闘ってみる。勝ち負けや出来不出来はともかく取り組んでみる、そういうことが今の自分にはもっと必要なのだなと思った一日でした。個人的には記念日ですね。サラダ記念日のようないいネーミングは浮かびませんが:-)

ま、そういうわけで、長く曲がりくねってるトンネルにも光が見えました。言い切っておきます。
転んでもただでは起きないぞ、と(時間はかかったけどね)。